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コラム「家康と安城」|家康公特設サイト|安城市観光協会
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安城市歴史博物館職員がお伝えします!!
これを読めば「家康公」と「安城市」の“深い関係”について知ることができるはず!!

※広報あんじょうに掲載されたコラムを転載しています。

第1回 家康と安城城*

竹千代は、安城で人質交換された

来年の大河ドラマは、松本潤さん主演で徳川家康(とくがわいえやす)の生涯を描いた「どうする家康」です。そこで全4回の連載コラムで、家康の人生と関わった安城の歴史について紹介します。
第1回は、「竹千代(後の家康)が織田の人質から解放されるきっかけとなった安城合戦(安城城争奪戦)」です。

歴史博物館の隣にある大乗寺(だいじょうじ)とその周辺には、徳川家康を輩出した安城松平家の居城 安城城(あんじょうじょう)がありました。家康の6代前にあたる岩津城(岡崎市)の松平信光(まつだいらのぶみつ)がこの城を攻め取り、子の親忠(ちかただ)を城主に据え、初代としました。次の長忠(ながただ)の時代には、松平氏のなかのリーダーである惣領家(そうりょうけ)としての地位を固めます。その後、信忠(のぶただ)、家康の祖父にあたる清康(きよやす)と続き、清康の代に岡崎に移りました。

安城城が家康の人生と関係するのは、家康の父、広忠(ひろただ)の時代です。1540年、尾張の織田信秀(おだのぶひで)(信長(のぶなが)の父)が三河へ攻め入り、安城城を奪い取ります(第1次安城合戦)。この戦いで、松平軍は多数の犠牲者を出すとともに、清康が造営した大岡白山神社(おおおかはくさんじんじゃ)が焼失したとされます。また、コロナワールド前の富士塚(ふじづか)は、この時の犠牲者を弔った塚と伝えられます。

その2年後の1542年に、松平竹千代(たけちよ)、後の家康が岡崎城で誕生しました。

広忠は、安城城を奪い返そうと1545年に攻撃しますが、失敗します(第2次安城合戦)。この後、広忠は駿河(するが)(静岡県中部)の今川義元(いまがわよしもと)に援軍を要請したと考えられ、その見返りとして竹千代を人質として差し出すことになりました。ところが、竹千代は駿河に向かう途中で奪われ、織田の人質となってしまいます。

1549年に広忠が暗殺されると、今川義元は太原雪斎(たいげんせっさい)を派遣し、松平軍を従えて安城城を攻めます(第3次安城合戦)。何度かの攻撃の後、安城城を奪還するとともに、城代を務めていた織田信広(のぶひろ)(信長の兄)を生け捕りにしました。その後、安城城の西の「西野(にしのの)」**で、竹千代は信広と人質交換され、約2年の人質生活から解放されたのです。

*安城城…安祥城という名称については、戦国時代の記述や呼称に従い「安城城」としています。史跡名になっている安祥城は江戸時代からの名称です。

**「西野」…安城城の西に広がる原野のこと。後の「安城が原」を含む碧海台地南部一帯に相当します。

第2回 家康と三河一向一揆・本證寺(1)

家臣分裂で家康は危機に!

尾張の織田氏の人質から解放された竹千代(たけちよ)(後の家康)ですが、まもなく駿河(するが)(静岡県中部)の今川義元(いまがわよしもと)のもとで再び人質としての生活が始まります。ここで青年期を過ごし、1560年の桶狭間(おけはざま)の戦いで義元が討たれると、岡崎城に戻って自らの領国統治を始めます。今回と次回の2回は、「若き家康に立ちはだかった家康三大危機のひとつ 三河一向一揆」についてです。

野寺町の本證寺(ほんしょうじ)は、鎌倉時代創建の真宗(浄土真宗)寺院です。西三河地方では真宗本願寺派(一向宗(いっこうしゅう))が広く信仰され、家康の家臣団にも多くの信者がいました。例えば、1549年の本證寺門徒連判状筆頭の石川忠成(いしかわただなり)(清兼(きよかね))は、家康の祖父から3代にわたり松平家に仕えた人物です。

本證寺第9代玄海(げんかい)が1562年に亡くなると、現在の滋賀県大津市の慈敬寺(じきょうじ)の空誓(くうせい)が、第10代として迎え入れられました。本山の本願寺の支坊である本宗寺(ほんしゅうじ)(岡崎市)の証専(しょうせん)が地元にいなかったため、本願寺第8代蓮如(れんにょ)の曾孫(ひまご)で血縁上宗主(しゅうしゅ)に近かった空誓が、この地域の寺院の中心的な存在になっていきます。

一方、家康が領国統治をはじめると、本證寺をはじめとした真宗寺院に与えていた不入権(ふにゅうけん)という治外法権と租税免除の特権が障害になってきます。本證寺では、不入権が及ぶ範囲が堀で囲まれた寺内町(じないちょう)となり、東西320m、南北310mの広さでした。しかし、家康が青年期を過ごした駿河では、今川義元が既にこの不入権を廃止していたのです。

1563年、不入権維持の寺院側と、それを否定する家康側との間で三河一向一揆が発生します。家康家臣は、真宗から改宗して主君に従う者もいれば、信仰に従い寺に立て籠もり戦う者、この機に乗じて反逆する者も現れ、家臣団は分裂状態になりました。

各地で戦いが行われた中、家康軍と伯父の水野信元(みずののぶもと)軍が西尾城へ食料等を運び入れた帰り、本證寺から繰り出してきた一揆勢と小川安政(おがわやすまさ)(小川町)で戦闘となります。一揆勢は果敢に戦いましたが劣勢となり、本證寺へ攻め込まれることを危惧した円光寺(えんこうじ)(桜井町)の順正(じゅんしょう)が、「野寺本證寺空誓とは我のことなり」と敵を欺いて自害します。家康・信元軍は敵の大将が亡くなったと思い込んで引き返し、本證寺は戦禍から救われました。

第3回 家康と三河一向一揆・本證寺(2)

本證寺が許されたのは一揆から20年後。秀吉のおかげ?

一揆勢の参加者数は、数千人から1万人と推定されていますが、全体を主導する体制が不十分だったこともあり、戦況は次第に劣勢になっていきます。
和議は一揆側から提案され、不入権(ふにゅうけん)の確認と一揆参加者の助命(「前々のごとく」)が条件でした。家康はこれを受け容れ、一揆発生の翌年には両者の間で和議が成立します。

一揆勢の武装解除が行われると、家康は掌(てのひら)を返し、寺院存続の条件として改宗を迫りました。これは和議条件に含まれていないものの、詭弁(きべん)を用いた奇策であり、まさに「だまし討ち」です。しかし、既に一揆側には再度戦う戦力は残っておらず、抵抗することができませんでした。家康は、一揆側からの和議条件「前々のごとく」を引き合いに、「前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよ」といい放ったと伝えられます。

僧侶や一揆側についた家臣の多くは領国外追放となり、寺院建物は取り壊され、本證寺の寺内町を囲んでいた堀も埋められました。家康の命令のとおり、野原となったのです。

本證寺第10代の空誓(くうせい)は、賀茂郡(かもぐん)菅田輪(すげたわ)(豊田市)に逃れ、後に大坂本願寺(おおさかほんがんじ)に身を寄せます。そして、この地域では真宗本願寺派の活動が表立って出来なくなりました。

一揆の罪が許されるのは、それから約20年後のことです。

この中心として尽力したのが、前回登場した本證寺門徒連判状筆頭の石川忠成(いしかわただなり)(清兼(きよかね))の妻妙春尼(みょうしゅんに)です。彼女は、家康の伯母で、家康家臣団西三河旗頭(はたがしら)の石川家成(いえなり)の母でもありました。一揆後の苦しい期間中も、信者の代表として人々をまとめてきたのです。

また、この政治的背景としては、織田信長が本能寺の変で亡くなり、家康と羽柴(はしば)(豊臣)秀吉との間での後継争いがあります。本能寺の変の翌年の1583年、本願寺宗主(しゅうしゅ)の顕如(けんにょ)が秀吉と対面、接近すると、家康は一揆関係者の処遇の見直しを迫られることになりました。

まず、1583年に有力寺院を除いた各寺が許され、小牧・長久手の戦いの後、西三河地方に秀吉との緊張関係が残るなか、1585年には本證寺をはじめとした有力7寺院が許されます。

この後、本證寺はその再興が進められ、空誓も野寺の地へ帰りました。そして江戸時代を通じて寺院建造物が順次整えられ、現在へとつながっていくのです。

第4回 番外編 家康は「その時」何歳*だったのか

様々な困難を乗り越えた若き家康

徳川家康というと、壮年期以降の「タヌキおやじ」のイメージが強くあるかもしれません。しかし、当然のことながら家康にも少年期や青年期があり、若さゆえの悩みもあったことでしょう。
コラムの最終回は、家康の人生が安城と関わっていた時、何歳だったのかを紹介します。

家康は、竹千代と名乗っていた幼少期に尾張の織田家の人質としての生活を送りました。様々なドラマでは、ここで後に同盟を結ぶ織田信長と出会うことになっています*。1549年の第3次安城合戦の結果、安城城の西に広がる「西野(にしのの)」での人質交換によって岡崎城に戻るのですが、この時、竹千代は8歳、信長は16歳でした。竹千代の目には、伝統にとらわれず奔放(ほんぽう)な信長の姿は、どのように映ったのでしょうか。

桶狭間の合戦後、家康は今川氏と決別し、領国統治を始めます。ここで真宗寺院への不入権が原因となって三河一向一揆が起こるのですが、この時、家康は22歳でした。家臣団が分裂状態に陥るなか、若き家康はどのように思い悩んだのでしょうか。

一方、対立する本證寺第10代の空誓(くうせい)は、19歳で本願寺8代蓮如(れんにょ)の系譜を引く慈敬寺(じきょうじ)(滋賀県大津市)から迎え入れられました。そして、まさにその翌年の20歳の時に一揆が起きているのです。
つまり三河一向一揆とは、長い人質生活から解放された若き領主(家康)と、蓮如(れんにょ)の曾孫(ひまご)というプライドを抱く若き僧(空誓)との争いと見ることもできるでしょう。

大河ドラマ「どうする家康」は、いよいよ1月8日(日)からの放映です。ドラマの中で戦国時代の安城がどのように描かれるのか、じっくり見てみましょう。

*ここでは、当時の「数え年齢」(生れた年を1歳として、以降、正月元旦を迎えるたびに歳を重ねる)に従っています。今日の満年齢とは、「数え年齢-1=満年齢」とお考え下さい。

*織田の人質時代の竹千代と信長とを直接結び付ける史料は見つかっていません。ただし、この年の11月以前に信長の父信秀が脳梗塞または心臓疾患で倒れていることから、11月23日ころに行われた人質交換は、織田家を実質的に後継した信長自身が関わっていた可能性が高く、2人を結ぶ接点は十分考えられます。

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