南吉が青春を過ごしたまち安城

南吉の生涯


生い立ちと児童文学への道

新美南吉(本名正八)は、大正2(1913)年7月30日、知多郡半田町(現半田市)で生まれました。4歳で母を亡くし、8歳で母方の実家「新美家」の養子に入るなど、複雑な少年時代を送りました。この頃の孤独や母への憧れは、後の作品に垣間見ることができます。

南吉は、16歳の頃から、若手作家の登竜門であり日本を代表する児童雑誌『赤い鳥』に作品を投稿し始め、昭和7年1月号には『ごん狐』が掲載されました。この頃からペンネームの「南吉」が定着していきました。同年4月、東京外国語学校英語部文科に入学。東京で巽聖歌や与田準一、江口榛一などとの交流を通して、文学活動の世界を広めていきました。

創作活動や、同僚や生徒との交流に
最も充実していた「安城時代」

南吉の東京生活は、昭和10年11月に体調を崩して帰郷したことで終わります。半田で会社勤めなどをしますが労働も過酷で、経済的にも精神的にも苦しかったようです。そんなとき、中学時代の恩師の尽力で安城高等女学校の教員になることができました。昭和13年4月のことでした。

安城高等女学校では英語・国語・農業を教えるほか、着任時に入学した19回生の担任になり、卒業までの4年間を受け持ちました。特に作文や詩の指導に熱心でした。生徒に作文を書かせては丁寧に添削し、また生徒の日記にも言葉を添え、そしてそのやりとりから創作のヒントを得ることもありました。哈爾濱ハルビン 日日新聞の記者になった江口榛一からの依頼を機に作品を次々に執筆したのもこの頃で、昭和16年に初の単行本『良寛物語 手毬と鉢の子』が、昭和17年には初の童話集『おぢいさんのランプ』が相継いで出版されました。ところが、同年11月頃から体調が悪化し、翌昭和18年2月には安城高等女学校を退職します。そして同年3月22日、喉頭結核で29歳7ヶ月の生涯を閉じました。

昭和23年、元同僚や教え子たちによって、安城高等女学校の中庭に南吉の詩が刻まれた「ででむし詩碑」が建てられました。南吉の顕彰碑第1号です。

南吉が安城で過ごした5年間は、教員という社会的地位を得て経済的に安定し、さらに教え子との交流から精神的にも充実していました。この「安城時代」は、新美南吉が最も輝いた時期ともいえるのです。